こんにちは、寧々です。
このブログを書く目的は、不登校という一つのことを乗り越えた記録として残すことによって、誰かの役に立つかも知れないと考えたからに他なりません。
同時に、出口を探してさまよっていた過去の自分に向けて、結果が出たよと、教えてあげたいと思ったからです。
不登校は家族の危機でした。乗り越えられたこと、乗り越えられなかったこと、どちらもありました。
9年に及ぶ不登校からの回復の時間。
(2020年前の記述です。2011年に発生しましたので、現在は12年半です。2024年3月記述)
今回は小学校3年生の時に、スクハラといじめのダブルパンチで不登校状態におちいった長男(高3)と、現在、原因不明で不登校真っ只中の次男(中1)を育てているシングルマザーの寧々が、長男の不登校での体験を元に『不登校でもひきこもらない生活』の時間をどのように過ごし、母親と子供がどのように心の状態を回復していったのかを書いていこうと思います。
※2020年の記述を中心に内容を書き足しています。学年は2020年のものです。ご了承ください。
Contents
不登校でもひきこもらない生活って?
不登校の状態になったら
社会から離れ、家の中に閉じこもらなくてはならないの?
そんな理由はなに一つありません。
学校を『休みたい』と子供がうったえた時は体調に合わせ、具合の良くない時は休ませ、具合の良い日は日々のお買い物や散歩など、少しでも外に出てみましょう。
不登校の時期でも、子供を連れて出かけることは、不登校を発端に完全に家の中に引きこもらないようにするためにとても有効でした。
不登校の始まりでは子供が体調不良を訴えることが多い。
不登校の子供は、当初、身体的にも精神的にも調子が急降下します。
学校へ行けず、自宅に居て、ふさぎ込んだり、部屋にこもることが増えます。
体調が悪い時はゆっくり休ませ、慎重に状態を確認してください。
確かめたいこと
不登校の始まりには注意が必要です。
原因がはっきりあっても子供はなかなか言葉にすることができません。
その気持ちの裏側にはどんな思いがあるのでしょうか。
【長男に克服した今聞き取りしてみた】
・学校へ行けないのが恥ずかしかった
・自分が悪いから暴力やいじめにあったと思った
・親に聞いてもらえないと思った
【次男に現在を聞いてみた】
・理由は分からない
・色々頑張りすぎた
など、自分が原因でそうなったと、不登校になりたての頃は、思っていたようでした。
不登校についてどう考えればよいのか伝えること
不登校になった時、子供の心は混乱して、どうすれば良いのか分からなくなっています。
それを踏まえて、周囲の大人は言葉掛けをする必要があります。
・今日は学校どうしたい?
・どこか行ってみたいところはある?
・なにか食べたいものはある?
学校にこだわらずそんなふつうの会話が大切です。
子供がいまどのゾーンに居るのかを確認します。
間違っても、
・今日は学校行く?
・さっさと勉強しなさい
・行かなきゃ〇〇だよ
は禁句です。(反省を踏まえ)
時間をおいて、回復状況により学習への促しや援助を開始していきます。
完全な不登校から少しずつ外の世界に目を向ける
不登校から社会復帰するにはどうすればよいか。
その際は、まずは人の少ない場所などで短時間過ごしてから、だんだんと長くしていきましょう。不登校の始まりでは、見守る側も子供も、学校へ行かないことについて罪悪感をもっている場合があるので、慎重に始めていってください。
長男の場合は、最初の反応があまりにも悪い方に強く出ていたので、初めのうちは外出は一切できませんでした。不登校状態になってからは一週間だけ連続で学校を休ませ、それからは少しずつ登校を促しました。
(学校の求めにより。家族の圧力もありこのときは自分には判断がつきませんでした。)
毎日1秒でも学校に行かせようとして誘う日々です。
それが自分と子供たちの長く孤独な日々の始まりでした。
残念ながら家族でさえも助けてはくれない環境でした。最初の周囲の反応は理由を精査することもなくただ盲目的に母親を攻めている姿勢でした。
それはつまり『お前の育て方が悪いんだ』ということをあらわしていました。
学校に行けないとうったえた時点から、長男は、ちゃんと話すことができなくなっていいました。原因は何か、どうしてそうなったのか。母親に答えを求める人々。原因・理由を聞き出すために知恵を絞ることの連続でした。
不登校になった時に子供に伝えるべきこと
長男が言葉を話せなくなり、情報を整理するために、最初から【筆談】しました。子供の意見についてはいくつかのことを提示して、【指差し】させました。
筆談した理由は、自分も気が動転して混乱しているので、子供に対して同じことを何度も聞かないためにです。理由を聞く間に、掛ける言葉としては、
・『怒っていないこと』
・『最低限の理由を知りたいこと』
・『今は学校へ行かなくて良いこと』
などを伝えました。
学校に行けないとうったえた時点で、子供は完全に自信を喪失しています。
長男に当時どう思っていたか聞いたところ、
『学校に行くのが怖かった』
『自分が情けないと思った』
と、現在高3の本人は話しました。
不登校時代のスペック
・長男:小学校3年生(8歳)
不登校になった原因が大人からの身体的精神的虐待によるものと考える
先生がいじめるならやってもいい、という先生のお気にいりからの、いじめ。
・母親:ワンオペ育児をしながら仕事や家事、PTA役員(部長)、地域活動、母親クラブ役員(会長)。毎日の夕方の遊び休日の遊びは必須。
前年度に放課後クラブの役員で会長をし、子供が不登校になった年は学校PTAで部長をしていました。
・次男:年中(4歳)
・父親:仕事のみ、主に休日は寝ている。家族とはあまり絡まない。モラハラがある。
不登校回復の道のり
【3年生】不安値が高すぎて異常行動
・連続で長く休んだのは1週間のみ。
送迎登校・保健室・同伴 ➡ 見える場所で待機 ➡ 数分離れる ➡ 1時間~離れる
■声掛け■
・『制服着てみない?』
・『校門に1センチだけでも足入れに行ってみない?』
・『保健室入ってみない?』
【4年生】送迎登校・保健室・不安値高い
■声掛け■
・『教室の外まで行ってみない?』
・『教室に1センチだけでも足を踏み入れてみない?』
・『椅子に座ってみない?』
・『鉛筆持ってみない?』
・『授業を受けてみない?』
・『テスト受けてみない?』
【5年生】怒りを出す・不安値高い・暴力的
【6年生】怒りを出す・不安値高い・暴力的
【中1】状態が悪化・送迎登校
【中2】状態悪い・送迎登校
【中3】状態落ち着く・送迎登校
【高1】不安あり・平日の昼食は自炊・自力登校・課題自力でする
【高2】不安減る・昼食自炊・自力登校・課題自力でする
【高3】ほぼ不安なし・昼食自炊・自力登校・課題自分でする・進学決まる
不登校になったら家に引きこもらなくてはいけないの?
▶そんなことはありえません!
楽しんで良いのです。できないことに囚われるよりも、未来をより良く生きる時間にすればよいのです!
子供が学校に行くことができなくなり、毎日、夜になり布団に入ると一時間以上叫びながら泣く子の姿に気が狂いそうになりました。同じ部屋の中で『大丈夫?先に寝るね』と、迷惑そうに寝てしまう父親に絶望。泣き叫ぶ子供に何もせず眠れる神経が理解できませんでした。
教師による一貫性の無い指導と尋常ではない攻撃、先生がするなら自分たちもしていいという浅はかな考えの同級生からのいじめにより、あの時の長男は精神崩壊していたのでしょう。
唯一の大人の世界と子どもの世界をつなぐのは、3歳の弟の存在でした。
世の中の大半の人々と違う暮らしに入ったからと言って、ひと目を気にしていては人間として楽しく暮らすことも許されないのか。
誰に許されれば良いのか。
誰が助けてくれるのか。
助けの手を差し伸べることもなく、ただ、批判的な言葉を発するのは思慮の浅い行為と捉えましょう。
強い言葉で言ってしまえば、『完全無視でオッケー!』です。
人生には色々な状態があります病気で入院を余儀なくされる人、一見元気に見えても心が辛くてたまらない人。
誰もが無神経に意見を言える人のように強いわけではありません。
誰もが健康であり続けているわけでもありません。
それを考えることができない人を恐れる必要はありません。
たとえそれが親族でもです。
支える気の無い人々が向ける負の感情は、
ギロチンスタイルで自分の心から切り離し、
遮断しましょう。
それが不登校の子供を育てる人の心を守る手段です。
順を追って理解し、話し合える人を味方につけましょう。
私の場合は、大学のカウンセリングルームの教授と現在の医師・臨床心理士だけでした。
■信じるに足る相手がいるか
❌学校相談の臨床心理士 ❌スクールソーシャルワーカー ❌教育委員会 ❌警察 ❌人権委員会 ❌街の精神科 ❌議員 ❌自分の父親 ❌PTA ❌恩師 🔺発達診断をした医師 ❌旦那
❌義家族⬅孫の良いことは全部自分の子のおかげ、悪いところは全部嫁のせいな人々。
❌ママ友⬅地域性があると思います。『なにかやれることがあったら相談してね』は自己保身の逃げの言葉。いい人だと思ってはいけません。実際、別地域に行った問題の教師はその後親たちの団結により、署名活動を受け、退職しました。
🔺➡🔴自分の母親
🔴大学内のカウンセリングルームの教授
🔴現在の精神科の医師・診療心理士
結論:本当の専門家だけに絞りましょう。
その他は全く時間のムダでした。
探る。責める。
これだけ❌が続けば人間不信まっしぐらです!!(笑)
たらい回しされたり、傷つくような、無用な時間を過ごすよりも、子供の心の回復に時間を注ぎ込みましょう!
世の中の大半の人がする暮らしをできることは社会で生きていくのに役立つでしょう。
では、そうできない人には自由に暮らす権利も無いのでしょうか。
否。社会に戻ることを一番上の目標にするとしても、まずは一度自分らしくなれたら良いのです。
不登校でも外に出るメリットは?(アンサー)
それは母親の心を少しでも安定させるためです。
不登校の子供をかかえると、母親の世界が遮断されます。
私も何度か心中を考えました。なかなか回復しない我が子に絶望感をいだいていたからです。
しかしその度に、『ひどいことをした奴らや助けない奴らのために私達が死ぬことは無い』と考え直しました。
八方塞がりで、笑えるほど味方はいませんでした。
回復の兆しが見えたのは、大学のカウンセリングルームを経て、現在の病院に通い始めてからです。不登校発覚から、2年が経っていました。
不登校で子供と母親が経験したこと
※ここからは何が起きたのかを赤裸々に書きます。とは言えあまりにもありのままに書くと大変なことになりそうなのでセーブして書きます(笑)
不登校状態になってから、長男は母親である私から離れることができなかったこともあり、小3~小6、中1~中3までの6年間、毎日子供と学校へ行きました。
24時間目が離せない不安定な状態の長男。自宅にいても時折涙を見せたり、不安をうったえたりしました。そんな時は、長男と二人きりになるためにドライブに連れ出しました。夜中であろうと、昼間であろうと、それは変わりませんでした。
家庭内で不安な気持ちが増す時は、誰かの言葉にゆらいでいたのだと思います。
1時間~3時間、夜中でも、必要な時はドライブしました。
車では色々な話をしました。
主には、長男がその時言葉にできない不安やもどかしく感じていることは何なのかを、少しずつ二人で探していきました。不安な状態のまま自宅に帰ることはなるべくしないよう務めました。
時には何に行き詰まっているのか分かっていない長男が、自分の気持ちを少しずつ小さな声で話しました。あまりにも声が小さくて聞こえない時は車を停め、ゆっくりと話しをしました。
初めのうちは幼くて、眠っていた次男も、成長とともに行きたい日は一緒にドライブに行くようになりました。
時間が立つにつれ、長男の生活スタイルも安定します。
母と長男、次男との時間。
父親は逃げました。
義実家は義母だけが介入し、当初は私から子供を奪おうとしました。
「義父には言うんじゃないよ」と義母から言い渡されました。
実母は、当初私を疑いました。
理解能力のある方だったのでその後、長男に起きたことを理解して協力してくれるようになりました。ただ、長い間私は『ダメな母親』でした。
私がダメだから、子供が…。
その時期は、私は周りのすべてを切りました。
それまでの人生、『笑う門には福来たる』を私は子供の頃から信じていました。だから、どんな時も笑顔でいようと心がけてきました。しかし、子供が学校で被害に遭って、思ったことは。
『笑う門には福は来ない。人を苦しめ搾取するだけの悪魔が近寄って来る』でした。
いつも笑顔であること。
素直で従順であること。
私はそのように自分の父母に育てられてきました。
しかし、私は長男の身に起きたことを知った時『自分の微笑みがもたらした害悪』ととらえました。
今思えば、長男をずっと登校させたことについても、なんとしても登校させたい学校側の索にハマってしまったのだと思います。学校に行けない理由を子供が話せないにも関わらず、学校へ行かせたことを後悔しています。
学校に連れて行くことで長男の状況は日々悪化していきました。
私はその時はまだ愚かにも学校を信頼していました。
学校は生徒が少しでも登校しているという事実があれば不登校になりませんから。
学校の子供たちと顔見知りにはなりましたが、時には保健室に来る生徒に『ヒッキー(ひきこもり)』と馬鹿にされることもありました。『おばさん、毎日学校に来てるけど、家事とかしてるの?家政婦でも雇ったら』という同級生もいました。中学の入学式ではパニックのような発作を起こしてうずくまる長男を倒れないように支える私に『久しぶり~元気い~』と昔のママ友がニコニコ手を振りました。
無神経なことをするのも言うのにも、大人も子供も関係ありませんでした。
ただ、人間性だけ。
■原因を知り気持ちが変わる
子供の状態が少し落ち着いたのは、不登校の状態になってから2ヶ月後でした。
当初、泣き叫ぶだけで、しゃべることができなくなっていた長男でしたが、不登校になって2ヶ月頃には自分の身になにが起きたのかを、ささやくように話せるようになってきていました。母と子二人の時間を持つようにしました。父親は無関心で、高圧的に質問することもあり、遠ざけました。
『ひどいことされる』
それが学校に通えなくなったことを語る長男の最初の言葉でした。
ボーイスカウトの活動には大変な状況でも参加していました。社会とのつながりを断つことが怖かったからです。(しかし、後にそれは間違いだったとわかり、退団しました)
その活動の途中で不意に長男が言葉を発したのです。
まるで幼児のような、単語だけ。
・『誰に』
・『何を』
・『どこで』
・『されたのか』
それを確認しました。
『先生に』
『叩かれる』
信じられない言葉に、怒りのような感情がわきました。
頭に血が登って冷静ではいられないようなかんじです。
『どこを?』
と問うと、背中や足だと言いました。
『どんな時にされるの?』
『誰もいない時』と。
『どんな強さでするの?ママにやってみて』
すると、ためらいながら長男が腕で私の肩を後ろから強く叩きました。
『足は?』
と聞くと、さすがにそれはできないようでした。
『じゃあ、地面をされたように蹴ってみて?』
と聞くと、バン!と地面を蹴りました。
『いつから?』
『ずっと』
『どのくらい?』
『ずっと』
と。
悲しくて涙がにじみます。
そんな場所へ、私は子供を通わせていたんだ。と。
小さな子どものように、ちゃんとしゃべることができなくなっていた長男。
これは医療の助けが要ると強く思いました。
それから一月ほどの間に、長男は自分に何が起きたかを証言。
結局は『担任からの身体的暴力と暴言・叱責』があったと長男は語りました。
しかし、まだあります。
その後同級生8人からのいじめも告白。同じ釜の飯を食った保育園の子もいて驚きでした。
しかし、前年度に母親クラブの会長をしていたこともあり、そのご縁で助けをいただいてクラス会議を開きました。この直前で『同級生からのいじめがあったこと』が分かったのですが、このことは学校側が言わないでくれと私に口止めしました。馬鹿な私はしたがいました。愚かでした。
当時の教頭は校長からパワハラ状態だったのか時々事実確認について慌てた声で電話をかけて来ることがありました。
実は一番最初に学校との話し合いをした時に【秘密録音】しました。
子供の対応に必死でしばらく聞き直すことができないでいましたが、自分の母親と二人で事実確認する途中で聞いていた時に見つけました。
教頭と話す席に同席してくれた前年度の放課後クラブの母親の会の理事に、たまたま出会い立ち話しました。
長男が教師から暴力を受けたらしいと知って、小学校の教頭との話し合いの席をすぐにセッティングしてくださり、一緒に話をしに行ってくれました。
しかし、子供の状態が悪いと呼び出された私が席を離れた隙間の二人の会話に答えがありました。同行してくれた方に対し教頭が、担任の教師について、問題があると学校側が知っていたことや、どこの学校に行っても問題を起こしている教師であること、などが語られていました。
学校からの説明全てが【茶番】でした。
■専門家を探す流れ
スクールソーシャルワーカー(学校側の人)
⬇
スクールカウンセラー(学校側の人)
⬇
街の精神科(微妙。技量により。運が良ければ◯)
⬇
大学のカウンセリングルーム(公平性高)
⬇
県立の精神科の病院(公平性高)
(紹介状)
⬇
現在の病院にたどり着く。
長い道のりでした。
■病院を探す基準
大学のカウンセリングルームで病院の紹介先の県立の精神科の専門病院で聞いたのは、
『犯罪被害にあったこどもの精神を診ることができる病院はありますか?』
でした。
県内には無く、片道5時間以上の道のりを通う病院ですが、本当に良い病院に出会いました。諦めないって大切なことです。
学校に行けなくなって4ヶ月後から大学の中にあるカウンセリングルームに2年半通い、重なるようにして、現在の病院に引き継いでいただき、2020年11月現在も通っています。
今でも時々思うことがありますが、小学校3年生の子供が
『言葉をしゃべれなくなるほどの』
『精神が壊れてしまうほどの』
『幼児に逆行してしまうほどの』
精神的身体的苦痛を受ける教室という閉鎖空間。
そんな場所に元気の無くなっていく子供を通わせていたなんて…当時は心底自分を自分を鬼だと思いましたし、隠匿し時間を稼ぎ、時効を待った学校や教育委員会を許せなかったし、真剣な相談を馬鹿にした警察を許せなかったし、お互いにかばい合い、たらい回しにする人々を許せなかった。自分たちの子供が被害に合わなければいいと言って無視するママ友も。別の地域ではそれを許さないコミュニティーが合ったけれど、自分の住む地域には無かった。それだけのことです。
今は、仕方ないと思っています。世の中は理不尽。誰だって自分の首が大事。そりゃそうだよね(笑)
一人の子供の心と人生が壊れることも、その人を支える人の心と人生が壊れることも、その人達には関係ないし、永遠に知ることは無いでしょう。
■不登校の理由発覚から1.5ヶ月までに確立したこと
・長男の状態把握
・次男への影響を最小限にすること
・教育委員会との話し合い
・学校との話し合い ➡ 担任からの暴力や暴言があったと学校に報告した時に、最初に言われたのは『そうじゃないかと思っていたが、お母さんずっと言わなかったから違うのかと思っていた』でした。学校側はどういう担任かを知っていたのですね。とはいえ、ここでも何もかも『母親のせい』『家庭が原因』です。
・保健室との話し合い
・担任との話し合い
・PTAの部長職の仕事
・スクールソーシャルワーカーとの面談 ➡ 『母親が悪い』が大前提のようです。やはり、教育委員会や学校に情報筒抜けと判断。
・スクールカウンセラーとの面談 ➡ 情報が教育委員会や学校に筒抜けですよね、信用できませんと断ると、『まあそうですね、私にはどうすることもできません』ということでした。
・保健センターでの児童虐待での相談 ➡ 後に父親に、電話があったことは母親には内緒に白と指示があり絶望感。母親が虐待していないか、だって。何もしない人が信頼され、頑張る人を疑うのかあ(笑)。ハンズフリーフォンですみません。丸聞こえでした。
・人権委員会への児童虐待での相談
・病院かカウンセリングルームかの判断
・カウンセリングルームの予約と通うこと
・お家の家事全て
・子供と遊ぶ
それらを登校できない原因が分かってからの数ヶ月で、各機関や周囲からの『母親が悪いんでしょ』というそしりを受けながら、たった一人でやりこなす必要がありました。
■家族や親族の反応
揃いも揃って、『母親が悪い』でした。
唯一自分の母親だけは『教師による虐待』という事実を正しく聞き取ってくれ、それからは協力してくれました。
義母は『母親が悪い』と、不登校が分かった時、子供を奪おうとしました。支えるどころか、義母との長いバトルの幕開けでした。それから毎日自宅に義母は来ました。
学校対応・PTAの仕事・長男を支え次男への影響を最小限にすることで必死の私が、ご飯を作れなくて数品しか出せていないことを見つけて、『これじゃ少ない、もっと作れ』と。
私はそのうちに追い詰められ、義母が来る時間に家にいることができなくなりました。それでも元旦那は義母が来ることを拒絶しませんでした。
■不登校を楽しむ
そんなこともあり、子供の状態が少し落ち着くまで少し時間がかかりましたが、状態が安定してからは子供が興味を持ちそうなことを提示して、病院以外にも外出を促しました。
・ケーキを食べに行く
・お昼ごはんを食べに行く
・ドライブに行く
・図書館に連れていき学習する
・ファミレスで学習する
心の状態が悪い時もなぜ子供を外出させたかと言うと、生活を続けて、残っている能力を失わないことが必要になってくると考えたからです。
もちろん昼間から子連れで出歩けば、周囲からは冷たく批判的な眼差しや態度を取られます。
周囲からの反応に打ち勝つ同行者のメンタルと、他者を受け入れなくて良いというメンタルを子供に植え付けていくことは必要不可欠です。
手伝わない人、助けない人に限って批判の眼差しを向けてきたり、母親への人格否定をしてきます。
本当に辛いことです。
しかし、
そんなものは無視しましょう。
胸をはって不登校を楽しむのです。
しかし、それには手順が必要です。⬇
不登校を楽しむ手順
不登校になるまでにはいくつかの複合的な原因があり、不登校の状態に陥るまで気づくことはできません。我慢の限界を超える日が、Xデーなのです。
長男が不登校になる前、ベテランの年代の女性教師のクラスでの新学期数日で様子がおかしくなりました。胸に不安がよぎりますが、信頼して任せることが必要だと思ってしまったことで状況は悪化していきました。
自分の直感を軽視したことを今でも後悔しています。
新学期始まってすぐにあった授業参観でのクラスの違和感。
笑顔のない子供たち。母親の直感でしかありませんが、前年度と違う、異様な空気がクラスに漂っていました。
■不登校前にあったシグナル
・表情が曇る
・笑顔がなくなる
・不審な怪我をしている
・何かを隠そうとしている
・視線があわない
・物事を以前より忘れっぽくなる(しかも何度も同じ失敗を繰り返す)
上記のように、いつもとは違う状態が続いた時は要注意です。
・いじめなど不登校の前には一般的に成績が下がる、というのがあるよですが、長男は成績が下がらず、『何かおかしいけれど大丈夫なのかな』『そのうち元に戻るのかな』とたかをくくっていたことは大きなミスでした。
■まずは原因を知り情報を精査するための記録
不登校の原因を知るために、子供の記録を取ることが大切です。
育てる側も必死だったり、混乱して記憶が飛びます。病院にかかるときや専門機関での説明が後々必要になった時に、記録があることで、スムーズに説明をしていくことができます。また、自分の心に抱えきれないものをメモすることで、辛さを軽減できます。
【事情を聞き取る前に必要な対応】
■全情報をまず遮断して関わる人数(質問する人数)を制限する。
■子供の状況が深刻な場合は学校の要請に従って学校へ連れて行こうとしないで休ませる。
■精神的に追い詰められているなら子供が居たい安全な場所に身を置かせる。
■学校が安全な場所なのか疑う目を持つ。
いろんな意見を子供に投げかけず、まずは休息させ、落ち着いた後ゆっくりと聞き取りをするほうが安全です。事情のわからないまま質問攻めにすることで、子供は追い詰められます。
混乱を大きくしないために、
起きたことをや自分の気持ちを話せるようになったら、子供が話す言葉を聞きましょう。
その時はただ受け止めることに徹します。
何が起きたのか
・気分での一貫性の無い指導
・食べられないとうったえても給食を継ぎ足し食べることを共用する
・教室内での叱責
・日々高圧的な暴言を投げかける
・足でける
・ひじで殴る
・往復ビンタ
これらの行為については、お医者さんの見解としては、『子供はあったことを話します』というものでした。
警察に相談しても、証言能力がこの年齢には無いから無駄ですよ。私達に言われても先生を叱って上げることはできないよ。と言われました。
『自分の祖父が警察官だったからそんな無理が言えないのは分かっている。怒ってくれとか馬鹿なことは言うつもりはない。どうしたらよいかわからないから相談に来ている』と伝えると、突然、態度が豹変。急に横柄な態度が無くなり、優しくなって、『困ったらいつでも相談に来てくださいね』と。警察を信用しないと決めました。この時は生活安全課。暴力が分かってからは刑事課で話しました。しかし、証言能力が無い年齢だと言われ、被害届を出すことを諦めました。
■子供の心の状態を把握する
不登校になりたてでは、子供の心の状態が混乱していたり、気持ちが落ち込んでいたり、様々あると思います。子供の気持ちが落ち着いてきたら、子供の心の状態を把握しましょう。
■状態把握■
・人に会えるのはどこまでか
・精神的に異常な状態になっていないか
いじめやハラスメントを受けると、精神(=心)が壊れることが多々あります。
・表情がおかしい。
・子供が大人の存在を受け入れることができない。
・兄弟とは話せる。
明らかな変化には信頼のおける精神科での診察が必要になります。
『みだりに診断を下さない、投薬について患者に権利がない病院』
であることが大切だと思います。
■対応すべきを対応する
まずは子供が学校へいけなくなった理由を把握する。
第三者的な専門機関があれば、そこだけが聞き取りをしてくれればよいが、日本には無い。大人からの暴力による精神的被害を受けた時の対応の仕方が分からず必死で文献を探した。
日本語で書かれたものは正直ありませんでした。
不登校の際に考えられる原因には以下のような内容が考えられます。
・『子供の性質』アスペルガー症候群などの子供の持つ特性によって登校が難しい。
・『周囲の原因』いじめやスクールハラスメントによる心の状態で登校が難しい。
・よくわからない、なんとなく。(あっても言えない)
■精神崩壊状態ではないかのチェックをする■
・突然泣き叫び何時間も続く
・言葉を喋ることができなくなる
・記憶が混乱している様子がある
・何が起きたかを思い出せないと言う
■回復可能な範囲かをチェックする■
・他の親との情報共有(不登校前は必須、不登校後は無視されても気にしない)
・周りからの助けがあるか
・支える側(私の場合は母親)が一方的に責められていないか
・第三者として正しい俯瞰をできる人がいるか
対応する中で、子供が起きたことを回想するような失敗や行動をとることがあります。
長男は飲食店で食器を落下させ、私や周りの大人の対応を確認したことがありました。
その際の注意点は、
・頭ごなしに子どもの人格を否定しながら怒りをぶつけない
⇒それはつまり、親が自分の対面を保ちたいから子供を攻撃して逃げようとしているだけです。
・子どもに怪我などが無いかを心配する言葉かけをし、チェックする。
・片付けについてお店の方に依頼する。
・ことが済んだら、話を持ち出さない。
これらがとても大切なことです。
■子供の気持ちや状況を聞き取る時に大切なこと
■子供の言うことを信じて受け入れる。
事実把握 ➡ 情報の整理と記録 ➡ 必要な機関の問い合わせ、手配 ➡
とは言え、先程も書きましたが、誰も助けてはくれないと思ったほうが良いです。
当時の校長に『PTAの会長とかで第三者入れて話ししましょうか?』と脅しのように言われましたが、入れるほうが安全と思い『お願いします』と言ったら渋い表情に。
結局誰も入れてもらえず、学校の先生と教育委員会の人だけでした。つまり、周りは敵ばかり。
警察もあてにはならなくて、残念でした。馬鹿にするような発言があり、親族に警察官がいるからそんなつもりは無いというと、慌てて手のひらを返されました(笑)
こんな人々には二度と頼らないと固く心に決めました。
子どもの精神状態が落ち着くまでは信用できる人物とだけ交流を持つように配慮することが大切です。
私は家族でも、傷つけてくる人は状態が安定するまで避けました。(主に義実家)
相手は理解しません。期待しないようにしました。
心を傾けて支援や援助をしない人間は全員『敵』です。
■母としてどうしてもできなかったこと
不登校陥った子供にどうしてもできなかったことと言えば、
・秘密録音のために子供をもう一度教室へ行かせることはできなかった
・泣き叫ぶ子供を撮影することも録音することもできなかった
母として、辛くて、怖くて、この2つだけはすることができませんでした。
それゆえに、真実をつかめなかったかもしれません。でも、無理でした。
その代わりに回復までの命がけの対応を学びました。
不登校、育てる側がしてはいけないことは?
それは『永遠の放置』です。
もちろん詰問、質問、しないほうが良い期間があります。特に不登校になり初めの頃は、子供は親に受け入れられるか、受け入れられないか、心の底から『おびえている』ことでしょう。
親と子の関わりがむづかしい場合があります。
子供の心がふさぎ込んでいる時、大人との間に壁を作り反応しなくなることがあります。その間を取り持ってくれる存在が必要になります。我が家の場合は弟の存在でした。
小3(8歳)
年中(4歳)
しかし、そんな中でも弟とは話をすることができていました。
長男にとって唯一心に入ることのできる存在が弟だったのでした。
■不登校が分かってからの長男の状態
大人と自分との間に布団の壁を作って、膝を抱えてうずくまっていました。
精神崩壊急性期の状態
・表情が曇る
・表情が無くなる
・視線が合わない
・学校へいけなくなる
・家から出られなくなる
■家を出られるようになってからの長男の状態
もともと外出好きの長男は誘えばよほど状態が悪くなければ一緒に出かけていました。
その際には
■人の目を避けるようにフードをかぶる
■人混みを避ける
■フラッシュバックなのか行動が止まる
24時間365日(閏年は366日笑)常に寄り添い、気を配り、即座に対応する。
不登校の子供をもった時の兄弟への対応
不登校になったという事実は本人だけでなく育てる側にとってもショックで本当に辛いことです。自分の気持ではどうしようもないものだと言うことを子供も育てる側も、周囲もお互いに理解しなくてはいけません。
まずは子供の心、気持ち、行動、結果を受け止める覚悟を育てる側が持たなければなりません。
いじめやスクールハラスメント、家庭環境、身体的な病気、心の病気、色々な理由が合わさっって不登校を選択せざるを得ないのです。
それまで頑張ってやってこれたことが終わる時、ふと、なにも手につかなくなり、家を出られなくなる。そんなこともあるでしょう。
今まさに、次男がそういう状態です。
物心がつくころから、ずっと兄の不登校の始まりからを見ることで、無理をして頑張らなくてはならない。
ただ事では無い雰囲気。
母親だけでもの不登校の対応。学校との話し合い。原因調査。学校からの時間稼ぎ。
地域活動や役員、しても意味無し。
みんな自分の子供が被害に遭わなければそっぽを向く環境。
誰も信じない。
家族も母親批判。
無視。
ワンオペ育児の弊害。
不登校の子供が母親を試すとき
大学のカウンセリングルームに行く日は学校に顔を出してから行くようにしていたので、常に外食でした。
その日はうどんを食べたと記憶しています。食事が終わってから、長男も自分の食べたトレーを運びました。しかし、トレーが長男の手を離れます。トレーとコップを落としコップが割れ、残りの水が飛び散りました。
子供がわざとそうしたことはなんとなく分かりました。
『大丈夫、怪我していない?』
そう子供に告げ、お店の方に掃除道具を借りようとしましたが、結局はお店の方が掃除してくれました。
周囲の方々にお騒がせしたことを謝り、お店の方にお礼を言ってその場を後にしました。
その日からようやく、長男は私を認めてくれたようでした。
それから一週間後、再びカウンセリングルームの日。初雪の降る日に、長男は嬉しそうに笑顔を見せました。嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。
その日のカウンセリングルームの帰り、疲れて眠った長男のを助手席に乗せて帰宅する途中、嬉しくて静かに泣きました。もう、目から滝!!!(笑)
希望の光が見えた瞬間でした。
不登校でもいいんだよ。楽しく暮らそ!
不登校?
だから?
なんの手助けもしない他人(家族も含めて)の意見は関係ない。
まずは…楽しく暮らそう!
不登校になったからと言って楽しんではいけないと気に病むことはありません。
とは言え、包み隠さず申しますと、不登校になった瞬間から周囲の人々が変化します。
優しさや遠慮は美徳とされますが、
『不登校児とその親』という偏見。冷たい視線。
人はそんなに優しくはありません。
自分たちが同じものと考えられないように距離をおきます。つまり、誰だって自分さえ良ければそれで良いと考えたほうが良いです。
・『なにかできることがあったら言ってね』
ママ友はママ友であって、真の友ではない。ということです。
親族でさえ母親のせいにして逃げます。
助けなど無いのです。
だからこそ不登校になると、子と母が孤立していくという過程をたどります。
ゆえに、不登校でも自分の時間を楽しみ、お出かけしたり、楽しく過ごせば良いのです。
『子供が疲れたらおしまい』は頭の片隅にいつも置いていました。
後日談
この文章を書いてから3年が経ちました。(2024年3月記述)
長男は専門学校に進学し、パニックを起こすこともしばしばあり、2年生からは一人暮らしをして学校まで徒歩3分の場所に住み、無事に就職先を決めて卒業し、無事に社会人1年生を終えました。
次男はコロナ禍をきっかけに中学校へは投稿できなくなり、自宅にて3年間をすごした後に進学し、現在は通信制の高校に通い、無事に1年生を終えました。
元夫については、離婚して1年2ヶ月後に病気で亡くなられました。
以上です。
まとめ
子育てや育児には『推理』するちからが必要だと思います。
子供は幼ければ幼いほど、精神面での不調の説明を言葉にすることができません。
子供の身に起きた問題に対応するために育てる側が全身全霊をかけて『理由を推理』し『検証する』ことが必要です。だから『事実』に行き着くまでに時間がかかる。
医療者とはっ違った立場での日々のサポートのために、慌てずに『パニックになりそうな自分』以外の眼を持って『状況を俯瞰』することが必要になるのです。
『不登校』とは育てる側と子供が『現実』を乗り越えるために、ともに支え合い『新しい人生に取り組む時』なのです。